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曹操と儒 

久々の更新。ブログの更新。
ってことで今回は、僕がAOで書いた論文を載せたい、と思います。
とりあえず、今読んでおかしいと思ったところは一部訂正、また、大学にアピールするということなんで、ちょっと載せていない部分もあるので、ちょっと文章がおかしいかも。

初めて書いたので、ぜんぜん意味分からないこと書いていますが、大目に見てください。


文章の中で、曹操が儒を弾圧した、と書いていますが、それは表現的には間違っていると思っています。
しかし、その曹操の行動を大きく見せるため、あえて弾圧という言葉を使っています。
なので、そこは指摘しないでくださいね。

 春秋時代に孔子は儒という思想を生み出した。現代でも中国や韓国を中心に信仰されている儒は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することから成り立っており、五常や五倫に含まれているものは、現代の我々が生きる上でも、重要な意味を成している。

 三国志という歴史枠の中で、曹操が儒を弾圧した、という事実は有名であり、それだけこの時代において儒というものが影響を与えていたということがわかる。
 では、儒は後漢末から晉の統一に至るまでの三国志世界の中にどのような影響を及ぼしたのか、そして現代社会において強く根付いている儒はなぜ曹操によって弾圧されなければならなかったのか。
 儒は、漢王朝の時代、董仲舒の献策により国教となって以来、漢朝四百年、大成を極めることになる。
 だが、その反面で儒の腐敗が始まる。そもそも国教となる以前は一部の学者の間によって儒は成り立っていたが、国教という立場になることによって、儒が民衆の中に浸透し、様々な人間が儒と関わるようになり、儒のアイデンティティーが失われた。
 その後、いわゆる黄巾の乱勃発の後、漢朝の政権は一時董卓によって掌握された。彼は涼州、つまりは辺境な地の太守であったため、そのような田舎者が権力を握るということをプライドが高い官僚(儒者の)は許さず、結局両者は反発をし続け、董卓はそれに対抗するため、恐怖によって政治を動かした。
 そして、それから十数年後、曹操が大陸の半分以上の大陸を握ることになる。曹操は「儒者たちの言うことは、見識が狭いのに勇ましい事を言っているのと同じだ」と言って、儒を弾圧した。
 その弾圧の一つは、求賢令の発布である。求賢令とは素行の悪い者や罪人、果ては異民族まで、才能さえあればたとえ徳行が無くとも登用するというものであり、これは、今までの儒の精神に基づいて行われてきた郷挙里選とは相反するものであった。
 さらにもう一つは、儒者の粛清である。曹操は孔子の子孫である孔融や、儒者として名高い崔琰や華佗などを追い詰めていき、曹操が意図するわけでもなく、儒者は自然と弾圧されていってしまったのである。。
 だが、こうした儒の弾圧は曹操一世代で終わってしまう。

 ところが、そのたった一世代での儒の弾圧で、儒は新しく生まれ変わった。
 つまり、儒者は従来ただ形式的に、断片的な儒の一部だけにこだわっていたが、儒という基盤に乗って、徳行の実践に重きを置くようになり、それが道徳的な慣習となって人間と接し、また、盛んに儒学の研究書や注釈書などが作られた。
 例えば「春秋左氏伝」から西晋の杜預は春秋学を生み出し、魏の学者であった何晏が「論語」の注釈書である「論語集解」を著した。また、漢代に始まり、後漢期に鄭玄や馬融らによって発展した訓詁学が魏晋南北朝時代に隆盛を極めた。これは孔子自身を研究し、孔子は何を言いたかったのかを研究する学問である。
 また、その西晉の時代に、竹林の七賢が現れ、知識人らが儒の礼教を批判する清談がはやり、新たに仏教や道教といった、儒とは異なった宗教や考え方も大陸に広がっていく結果となった。
 そして、このようなことによって、儒は新たな可能性を見出した。それまでは儒という小さな殻に閉じ篭って、他文化を批判したり、一人よがりな考え方になることがあった。
 しかし、色々な文化や考え方が広まっていくにつれ、儒のみの考え方という形式が薄らいでいき、儒と新たなものが融合することになっていき、その結果、今までには無かった全く新しい文化を生み出した。例えば、科挙は、根本的には儒学的な素質を問うものであるけれども、採用方法としては、テストを行い、それに応じて採用する、曹操が行った才能重視主義と同じである。
 また、現在のベトナムにおいて、カオダイ教と呼ばれる、儒教、仏教、道教、さらにはキリスト教、イスラム教の融合仏教が生じたのも、その一つであろう。

 儒を弾圧したがゆえに、三國演義では曹操は悪役とされた、といっても間違いではないであろう。また、劉備が主人公であるのも、漢王朝を助け、仁義を尊ぶ人物であったゆえに、儒のプロパガンダとされた、ということもあるだろう。
 ということは、儒という視点から曹操の行為を見つめ直すと彼のおかげで儒は生まれ変わったということではなかろうか。そう考えると、曹操は「悪」であるというのは間違っているのではないか。
 どれだけ儒が進化を遂げても、儒の精神に基づいて「善」とされたものもあれば、「悪」とされたものもたくさんあるであろう。
 これは一つの例でしかないが、このように儒は歴史と大きな関係を持ち、儒によって隠された歴史の事実は、儒を新たに見つめ直すことによって、実際に「善」は「善」であったのか「悪」は「悪」だったのか、我々に教えてくれるのだと思う。
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[ 2006/04/08 23:44 ] 三国志 | TB(0) | CM(5)

凄い、引き込まれてしまいました。

曹操の「弾圧」によって、儒が新たな息吹を与えられた、というのは非常に興味深い考察だと思います。
そもそも儒は、漢代以前は基本的に「反体制」(だからこその「焚書坑儒」)なわけで、曹操の「弾圧」によって本来の「健全な野党的精神」を回復させた、という解釈も成り立つと思います。

ただ、曹操もこの路線を途中で放棄している様にも感じられます。具体的には、曹丕を正式に後継者に指名(五官中郎将任官)した段階で。
簡鍛さんが挙げていらっしゃる儒派(毛玠・崔琰など)はかつて魏勢力の人材登用を主体的に担ってきたわけですが、曹操の「求賢令」と真っ向からぶつかり理由をつけて粛清されたものと考えられます。曹操は儒にとって代わる新しい価値観を用意していたと考えているのですが、それが「文学」だったのではないでしょうか? そして、それを体現する後継者候補こそ曹植だったのではないかな、と。
ただ、何らかの理由で曹操はこの路線を放棄せざるを得なかったのではないでしょうか。そして、曹操が「弾圧」してきた儒派に担がれた曹丕が後継者に指名された、と。
そう妄想すれば、曹操がともに覇業を為した賈詡に後継者問題で諮問したエピソードにも違う解釈がなりたつように思います。
後漢時代から続く名族ではない賈詡は、曹操の幕僚団の中では儒派の価値観から比較的距離を置いている者の一人だったと考えられます。
が、曹操の諮問に対して賈詡は曹丕を推しました。ひょっとしたら曹操は賈詡が曹植を指名することを期待していたのかも知れません。

・・・もちろん、全部私の妄想ですけど
[ 2006/04/09 02:23 ] [ 編集 ]

ご覧になっていただいてありがとうございます。

今考えると、モロに蒼天航路の影響を受けていることが分かります・・・。

貴重な妄想(笑)、改め考察ありがとうございます。

僕も、曹操が目指したものが文学、むしろ学問という価値観を見出したかったんではないかと思います。
建安文学をはじめ、曹操は医術というものを、儒から取り出し一つの学問とし、学ぶことこそ、人間のすべきこと、だと曹操は考えたんではないかと。
確かにそういう意味では、曹丕よりも曹植のほうが優れていますし、赤壁の戦いの以前としては、曹操の頭の中での後継者の位置づけは曹沖>曹植>曹丕だったと思います。
でも、曹沖は夭折し、曹操は南下政策に失敗し、その時点で曹操は彼が生きている間に天下統一することを不可能と感じ、天下が不安定の中で、儒者を排斥することはできないと、儒を受け入れていた曹丕を、後継者としたんではないかなと。

だからこそ、曹丕が即位すると、今まで自分が父の世継ぎになるということを、(意図的にではなく)阻止しようとした弟たちを冷遇したんだと思います。

確かに賈詡は、儒者という感じはしませんよね。彼の生まれは涼州であるし、上でも書きましたが、田舎者として、儒者にある意味虐げられてきたんではないか、と思います。
そういう儒とかかわりを持たない賈詡を、曹操は自分の息子や、典韋を殺した、という私怨を忘れて、重用したんだと思います。
だからこそ、賈詡も、曹操という巨大な人物亡き後も、儒を弾圧するような政策を採り続けるのは、危険だと感じたのではないでしょうか?
そう考えると、曹操が、酒好きで性格が悪い、儒の品格には全くそぐわない郭嘉を、後継者としようとした、のかもしれません。
[ 2006/04/10 00:09 ] [ 編集 ]

郭嘉に関しては確かにそうかも知れませんね。
その郭嘉をさかんに弾劾していた品行方正な生粋の名族・陳羣は意外と曹操の生前は献策しても聞き入れられなかったりしているんですよね(後で曹操が詫び入れてますが)。
よく、劉備は陳羣を使いこなせなかったけど、曹操は使いこなせた、のような評を聞きますが、明らかに曹操は陳羣を煙たがっていたと思います。
陳羣が政権内で重きを為すのは曹丕に重用されたからであって、このことも簡鍛さんの考察の正しさの傍証となっていると思います。
[ 2006/04/12 02:17 ] [ 編集 ]

郭嘉にしても、その前の戯志才にしても、やはり儒とはそぐわない人物ですからねぇ。
董仲舒が見たら、びっくりするような。
ん~、でも考えてみると、三国の劉備にしても、孫権にしても、あまり儒への執着心みたいなものはみられませんね。
劉備は、若いころは廬植らの授業を真面目に受けず、着飾って、音楽聴いてっていう有名なエピソードがありますし、蜀は道教信者が多いらしいですし(本に書いてましたね)それも儒では受け入れがたい性格ですし、孫権っていうか呉にしても、むしろ仏教のほうが流行していたんではないかって、そういう感じもしますね。

確かに陳羣、難しい人物ですが、曹操が死んですぐに、曹操の求賢令に反し、むしろ郷挙里選に近い、九品中世法を出してますし、ゆえに、儒の信仰が厚い曹丕の「四友」となったんではないんでしょうかねぇ。
彼にしても、結局かわいそうですよね。門閥貴族とかが出来てしまって、後漢末期と変わらない状況になってしまってますし。

ついでに、三國志11武将ファイルのコメントも一緒に書かせてもらいます。

夏侯玄とか張緝、ほんともっとちゃんと生きていれば、功臣となっていたでしょうに。
ってか彼らがクーデター成功していたら、魏王朝天下統一も夢ではなかったでしょうねぇ。
[ 2006/04/12 23:52 ] [ 編集 ]

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[ 2008/12/04 03:26 ] [ 編集 ]

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